関東学院大の卒業生2045名、大学院博士前期課程修了生42名、後期課程修了生8名、そして専門職大学院修了生2名、合計2097名の皆さん。皆さんは、本学が定めた所定の単位を修め、卒業、或いは修了に必要な全ての試験、審査に合格したことにより、それぞれの専門分野における学士・修士・博士を名乗る資格があると認められ、先ほど学位が授与されました。本学での学びを通して大きな成長を遂げられ、この日を迎えられた皆さんに、心よりお祝いの言葉を贈りたいと思います。

 また、本日ご臨席くださいましたご父母の皆様。この度はご子息様、ご令嬢様の卒業、修了、そして学位取得、誠におめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。これまでお子様方を見守り、あるときは励まし、またあるときは背中をそっと押し、まさに物心両面にわたって支えてこられましたことに敬意を表するとともに、関東学院大学の教育理念に御賛同くださり、多大なるご協力、ご支援を賜りましたこと、心より感謝いたします。関東学院大学を代表しまして、ここに厚く御礼申し上げます。長い間、本当にありがとうございました。

 さて、卒業生の皆さん。これまでの4年間を振り返ってみて、充実した学生生活であったと思いますが、いま一度、「大学で皆さんは何を得たのか」、「大学で皆さんはどのように変わったのか」、その答えを探してみて下さい。今日は、皆さんの卒業をお祝いする場ですが、少し私の話をさせて下さい。

 大学生のときの私は本当に劣等生でした。このように話すと、「そんなことを言ったって、どうせ誇張した例え話だろう」と思われるかもしれません。決して不真面目を自慢しているわけではありません。今でも当時の同期と話したら恥ずかしくなりますし、両親にも迷惑をかけたと思っています。1年浪人を経て、親元を離れ、大学生になった私は、第二志望の学科でしたが、毎日が楽しくて仕方ありませんでした。

 学生寮に入ったことで、全国から集まった同期だけでなく、2つ、3つに留まらず、5つも、6つも年上の大学院の先輩もいる。そんな人たちと寝食を共にし、語り合ったり、遊びに行ったりする毎日につい充実感を覚え、気がつけば大学の講義は疎かになっていました。不真面目と表現する生活とは少し違うと、今でも思っているのですが、そのツケは当然、自分自身で払うしかありません。当たり前のように3年生に進級できずに落第しました。その間も、部活やアルバイト、友人や先輩との付き合いも楽しみ、勉強以外のところでは「すごく充実」といえる学生生活を送っていましたが、大学の講義だけはなかなか足が向かない、積み重ねがありませんから、授業に出ても十分に理解できなかったのです。何とか4年生に上がれる目途が立ったとき、これで卒業だと、私は結構、浮かれていたのですが、仲の良かった友人から、はっきりとした口調で、「お前、このままじゃまずいよ。何も身についてないじゃない」と言われました。笑いながらでもない、嫌みでもない、その表情から「本当にまずいのだ」と一瞬で悟りました。今もこの友人には感謝しています。

 丁度その年、後に私の恩師となる教授が着任しました。厳しいと噂のあった研究室に入って、本気で勉強してみました。悲しいくらい勉強の癖がついていませんでした。それでも本気で勉強の真似事をし続けたと思います。気がつけば、学ぶことが好きに、知識が増えることがある種の喜びに変わっていました。いつ、どのタイミングで変わったのかは分かりません。恩師は厳しいけど、いつも研究者としての背中を見せ、学生の私たちを大人扱いしてくれました。「この先生に恥ずかしい思いをさせてはいけない」。「この先生に「できません」という台詞を吐いてはいけない」。研究室の仲間とそんな生活をその後30年、続けてきました。

 あのとき友人が声をかけてくれなければ、かけてくれたとしても、冗談のように「まずいよ」と言っただけだったなら、一年遅れの大学生活のタイミングで恩師が着任しなければ・・・、「学ぶことの喜び」という不思議な気持ちがあることを知らないまま、社会人のスタートを切っていたかもしれません。

 長い自分語りをして、申し訳ありません。
私達もまた、皆さんとの4年間を振り返らなくてはなりません。

 高等教育機関として教育・研究環境を整え、皆さんを支援することは勿論、教員として、研究者として、職員として、ひとりの社会人として、我々の日頃の行動を通して、皆さんから信頼を得ることができたのだろうか。同じ学問を志し、同じ夢を追いかけ、この4年間、時を共有してきた皆さんと、大学人として、人生の先輩として、或いは、常に寄り添う隣人として、心を開き、お互いをわかり合える関係を築くことができたのだろうか。そして何より、教養や知識を身に付け、技術を高めることの喜び、学問に対する情熱を皆さんに伝えることができたのだろうか、まずは、私自身に問いたいと思っています。

 その上で、少しだけ厳しいことを言わせて下さい。
「学生の間に、もう少し学んでおけば良かったな」と、今そう思っている人は、その評価は別としても、おそらく自分自身の「学び」を客観的に見ている人です。真剣に学ぼうとする気持ちがあるからこそ、或いは、学びの大切さに気づいたからこそ、「足らない」という言葉が謙虚な気持ち共に湧いてきたのかもしれません。

 一方、ここに居られる皆さんのなかで、「自分は社会に出てから本領を発揮するタイプだから」とか、「社会に出てからが勝負、これから挽回すればよい」、そう思っている人がいるならば、どうか今一度、考え直してください。「これまでのことは一旦リセットして、心機一転がんばろう」その気持ちは私の経験からも痛いほど分かります。でも、楽観的に、年初の抱負のように話している間は、進歩はありません。厳しい言い方ですが、もしそれで終わってしまえば、大学という環境で学ぶ意義が無くなってしまいます。大学での学びを選んだ自分を否定してしまうことになります。何度でもチャンスが巡ってくるのが人生ですが、その機会に甘えて、今を疎かにしていては、次の挽回のチャンスは巡ってこないかもしれません。「学ぶことを少し疎かにしたかもしれない」、もしあなたが今、少しでもそう感じているなら、それは絶好のチャンスです。そのことを悔やんでみても、恥じてみても未来は拓けません。だからそれを忘れず、常に意識して、社会に出てからも、いや、社会に出たからこそ続くであろう「学び」を、是非とも大切にして欲しいと思います。

 「大学で学んだことなど、社会では通用しない」そんなセリフで気を楽にしてはいけません。 大学は、単なる知識や技術を得る場所でなく、その根本となる思想や哲学、真理を学ぶ所です。勿論、実践・応用に向けた方法論や、実践そのものも学びの対象です。ただ、それにも増して何より、「学ぶこと」の意義と「楽しさ」、「学び続けること」の大切さ、そして、人として「教養を身に付けること」の大切さを知ることにこそ、大学での学びの本質があるのです。「大学で学んだことは通用しない」のではなく、「大学で学んだこの本質こそ、私たちが社会で活かすべきこと」なのです。

 もうそのチャンスはないと卑下する必要はありません。私たちはまだまだ学び足らないし、「真の教養」とは、どこかで完結するようなものではないと思っています。私たちは、これからも学び続けることでしか、「真の教養」を身に付けることが出来ないのです。その「学び」は何も講義を受けたり、書物に触れたりすることだけを指すのではありません。人との繋がりが学びのきっかけかもしれません。これからの人生の様々な場面で学びの機会は訪れます。タイミングがあるのです。そのとき皆さんが、それをチャンスと捉え、語弊のある言い方ですが、「教養豊かになる自分が」、「学べる自分が嬉しい」と思ってくれることを期待しています。

 本学の校訓「人になれ 奉仕せよ」という言葉には、いつの日か、今はまだ見えないけど、誰かのために、社会のために、何かを実践できるように、少しでもそれに足り得る人に近づけるよう、謙虚に学び続けなさい。そういう意味が込められていると、私は思っています。

 さて、今日ここに居られる皆さんの多くは、4月から社会人として新しいスタートを切ることになります。これから社会に出れば、さまざまな困難に直面するでしょう。思い通りにならないことも多い。自分が何をして良いのか、何が出来るのか、どう評価されているのか、分からなくなることだってあります。そんなときに、「この世界は自分には向いていない」、と直ぐに諦めてしまうことは簡単です。「自分が想像していたような世界ではなかった」と直ぐに見切りを付けてしまうのも簡単です。逆に、まだその世界を十分に見渡し、理解できていないはずなのに、「これなら自分は十分にやってゆける」と勘違いして、気を緩めてしまう人もいます。でも本当は、まだ何も見えていないのです。だから最初から「この程度か」と決め付けるのではなく、「自分は努力しなくても大丈夫だ」と慢心するのでもなく、どうかしばらくは、予断を持たずに努力を続けてみて下さい。少しばかり身を小さくかがめて、どんなことでも学び取ろうという、謙虚に、しかし貪欲な気持ちで物事に挑んでください。ちょうど水の中で、スポンジをぎゅっと硬く絞って、いつでも水を吸い込めるように待ち構えているような状態です。皆さんが手にしているスポンジには、知的好奇心という小さな穴を沢山開けておいたつもりです。手のひらをそっと開けば、自ずから知識や技術を吸収することが出来るはずです。そうした気持ちがあれば、自分が次に何をすべきか、何が出来るのか、何を学ぶべきか、見えてくる瞬間が必ずきます。

 それでも自分の道に迷いが生じたときには、どうぞ遠慮することなく、いつでも大学の門をくぐり、私の、私達の部屋のドアを叩いてください。いつも私たちは待っています。いつだって、幾つになっても、何度でも、それができるからこそ、皆さんは私たちの教え子であり、関東学院大学の卒業生なのです。これだけは必ず覚えておいて下さい。

 卒業される皆さんにもう一つだけ、お伝えしたいことがあります。相手のことを思う「ことば」の大切さについてです。目の前にいる相手に、「心温まる言葉」をかけたなら、言葉をかけた側もかけられた側も、お互いに優しい気持ちになれて、自然とそこには良い関係が生まれるでしょう。逆に厳しい言葉、例えば、批判や叱責、罵倒する言葉からは、穏やかな気持ちは、なかなか生まれては来ません。特に、それが直接ではなく間接的に、人づてに批判の言葉を耳にしたときなどは尚更、心中穏やかではないでしょう。もし皆さんがどこかで、そのような言葉を発しそうになったとき、相手の気持ちを慮った言葉を使えるかどうかで、あなたの人間力が試されると思って下さい。一方、本当にあなたのことを心から思い、誠実に発せられた言葉であったならば、その言葉が例え強く、重く、鋭いものであったとしても、あなた自身にとっては、これもまた、あなたのことを思った「愛のある言葉」だと感じて欲しいのです。自分にとって都合のいいことだけを受け入れるのではなく、心が痛む批判の言葉であっても、その言葉を真正面から投げかけてくれた相手に対して、それを拒絶するのではなく、「ありがたい」と思うことで、そしてまた、その言葉の真意を汲み取ろうとする気持ち、そのものが良好な人間関係や心暖まる社会を創り出すだけでなく、あなたの未来に繋がる言葉になるかもしれません。

 「言葉」はとても大切です。「黙っていても分かってくれる」決してそうではありません。
「なかなか言葉にできなかった」饒舌である必要はありません。ただ、言葉にしないと伝えられない気持ちもあります。あなたが発したたった一言が、あなたと、あなたの周囲を幸せにすることが出来るのです。あなたに向けて発せられた、たった一言の真意に気付いたとき、あなたは一生、穏やかな気持ちで過ごせるかもしれません。「直接」であっても、「間接」であっても、相手を思う気持ち、「愛」を伝える、「愛」を込めることの大切さ、何度も言うと少し照れくさいですが、「愛の言葉」を、どうか大切にしてください。それはきっと、関東学院大学で学んだ「人になれ 奉仕せよ」という校訓の、そのまたずっと先にある大切なものにも通じている。私には、そう思えるのです。

 長くなりました。まだまだお話したいことは沢山あります。皆さん一人一人に、お伝えしたいことは幾つも残っているのですが、そろそろ時間になったようです。

 いよいよ皆さんが自らの力で、人生を切り拓いてゆく瞬間がやって来ました。これから社会に飛び立つ皆さんには、関東学院で得られた力を存分に活かし、未来に向かって活躍していただきたいと期待していますが、それにもまして、どんな時であっても、皆さん自身が健やかに、心穏やかに、喜びと温もりを感じられる豊かな人生を送って欲しい。そう、心から願っています。そして、十年後、二十年後、三十年後、四十年後、関東学院大学に在籍していてよかった。そう思っていただけるよう、私たちもまた、皆さんの傍に寄り添い続ける存在でありたい。そう思っています。

 私からの皆さんへの最後の言葉です。
卒業、修了、本当におめでとう。必ずまた、お会いしましょう。

関東学院大学 学長    
規矩大義(きく・ひろよし)


 小河陽学院長の祝辞はこちらからご覧いただけます。

投稿日時:2018-03-24 18:00:00

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